2018/04/07

この人も、唄っていた




中島美嘉(なかしまみか)も、中島みゆき(美雪ー本名)の
命の別名
を唄っている。


いのちの別名は、「こころ」という。

こころが無い人が多いね、
何とかスポーツの団体の役員、日本式体育会系の幹部の皆さん、

国技とか何とかいって威張っている巨体のおひとたち、、

与党のみなさん、

東大法学部出身の一部のひと、(別にこの大学に予断と偏見があるわけではないですが、自分をこの世で選ばれた人(エリート)と思い込み、拝金主義に陥り、悪いエリートになっていると感じます。)


いまだに、原発推進にこだわっているひとたち


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命の別名
という唄は、「糸」のカップリング局で、
聖者の行進のテレビで、水戸事件がベースだと、前号で書いたが、次の視点もある。

命の別名は、「落合真司は神戸連続児童殺傷事件(1997)を歌っているのではないか、と著書で述べている」と、ウィキペディアにある。
※ 落合真司(おちあい しんじ、1964年3月5日-)は、日本のクリエイター。大阪府大阪市生まれ。本名は山下昌彦(やました まさひこ)。東大阪市立池島中学校、大阪府立池島高等学校、追手門学院大学経済学部経済学科卒。中島みゆきに関する著書が多数。


中島みゆきの唄は、なぜに、どうやって産まれるのか。
彼女にあたえた父親の影響


中島みゆきの父親は、産婦人科の医者であった。

 中島みゆきの父眞一郎氏が産婦人科の開業医であったことはあんまり知られていません。
普通、開業医で、しかも産婦人科と聞くと「お金持ち」のイメージがありますが、

眞一郎氏は所謂「赤ひげ先生」のように弱く貧しい家の出産費は取らず、家計は決して裕福ではなかったと対談で述べています。

その背景には眞一郎氏の父親つまり中島みゆきの祖父にあたる中島武市氏の存在が大きかったのではないかと推測します。。
祖父武市氏は、

1897年 岐阜県に生まれる
帯広市議、経済界

1965年 全国市議会議長会常任理事
1966年 同代表監事に就任

  このように武市氏は帯広において名士でした。
しかし、眞一郎氏はそんな父親を嫌悪していたのではなかろうかと考えます。
家業(古着屋)も継がず、政治の世界へも背を向け、医学の道を選びます。
そして医学の中でも特殊な産婦人科を選び、地元の帯広には帰らず札幌で開業します(おそらく北海道大学医学部を卒業したものと思われます)。
父親を嫌悪するだけに名声を求めず弱く貧しい人々の味方であろうとしたのだと推察します。

1957年岩内へ引っ越し(岩内協会病院に勤務したといわれています)、
1963年帯広で「中島産婦人科」を開業します。
この年、武市氏は66歳で帯広市議会議長に就任していますが、眞一郎氏も39歳となり,
若かりし頃の武市氏への嫌悪感は消え長男として老後の面倒を見る覚悟で帯広に帰ったのではないかと思われます。

しかし、
皮肉なもので武市氏が1978年(81歳)まで長生きしたのに対して、
眞一郎氏は1975年9月に51歳の働き盛りに脳溢血で倒れます。

おろおろする家族に医者は「もう一晩待て」「もう一晩待て」としか言ってくれなかったと中島みゆきはインタビューで答えています。

折りしも、
中島みゆきは同月『アザミ嬢のララバイ』でプロ・デビューを果たしています(どちらが先であったかは不明)。

さらに10月、「つま恋本選会」では『時代』を歌ってグランプリを受賞します。

また11月15日に開催された「世界歌謡祭」で同じく『時代』でグランプリを受賞します。

しかし、
中島みゆきにとってグランプリ受賞は喜べるはずがありません。

愛する父親が昏睡状態にいる中での晴れやかな舞台に中島みゆきの心は引き裂かれる思いだったでしょう。
しかしテレビで観た限りにおいて「世界歌謡祭」の中島みゆきに暗い影はありませんでした。

1976年1月、
眞一郎氏は息を引き取ります。
「その時、家には10万円もなかったのよ」と中島みゆきはインタビューで答えています。
眞一郎氏の「赤ひげ先生」ぶりを如実に表しています。

そんな父親を看取りながら、
彼女は、歌姫になっていったのです。

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